船頭夜話 9
房州大原に溶け込んだ紀州船頭の心意気―
タイを求めて大原から遠征釣行ヘ―
関東地方で大ダイの名場所といえば外房大原である。
外房大原を中心とする大ダイが何故かくも有名になったかそして何故“紀州釣法”が大原を
中心とした外房一帯で行われているのか、これを語らんとすればまず大原タイ釣りの開拓者
紀州船頭中井捨松の波乱に富む一生を語らなければその説明にはならないだろう。
タイ釣りの開拓者、中井捨松
外房大原を訪れたのは、終戦記念日間近い八月十三日、その日、大原は雨混じりの強風が吹き荒れていた。
奇しくもこの日は、紀州船頭中井捨松の新盆である。
松栄丸では、長男光夫(四十二才)、銭洲の遠征釣りから帰ったばかりの勝(次男三十七才)、
弘(三男三十四才)、そして古くからの中井捨松のよき理解者である読売の石井善助氏等が、お祖母さんを
囲んでの懐旧談に、ひとしきりわいているところであった。
今年四月、六十五才で逝った捨松は、もともと和歌山県雑賀崎の生れ、物心つく時分から父親に連れられて
漁に出ていたという、根っからの漁師であった。それだけに黒潮でもまれた気性は激しく、紀州のタイ漁場が
荒れるにつれ、その馴染みきった海があき足らなくなり、新たな漁場を求めてとび出したのだった。
時に捨松が二十才、兄の清松ら六人と一トン足らずの船三隻で、新天地を探して紀州沖を後に、勇躍、黒潮に
乗って船出した。
紀州勝浦から鳥羽、そして御前崎と、タイー本釣りに全てをかけ、行く先々の地元漁師に売られる荒れた喧嘩を
物ともせず、着実に水揚げを増していったのである。
だが好事魔多し、水揚げ増せばそこには血気盛ん―女郎買いに全てを費消してしまう惑溺の毎日となって、初めの
意気はどこへやら、借金を背負って紀州は雑賀崎へ舞い戻ってしまったのである。
だが捨松、そこで挫折(今流行りの言葉でいえば)してしまうようなエセ者とはわけが違う。
雑賀崎での無聊の毎目、チラとどこかで見た観光名所図絵―そのところに、大ダイのハネ踊っている絵が描かれて
いるではないか、血の騒ぐのを覚えた捨松は、此所こそタイの漁場に違いないと、再度遠征を試みたのであった。
今度は捨松も慎重であった。勝浦から大原にかけての水温や魚族調査を徹底して行ない、最初の思い過たず、外房
こそタイ、ワラサ、ブリなどの生息地と見て、漁師一生の地だと確信を得た捨松は、単身勝浦に住みついたのである。
この当時、外房の漁師の間で行なわれていたタイ漁法は“のべなわ漁“で、一本釣りなどとても考えられなかった。
そこへ、捨松は紀州釣法である“ドンブリ漁法”を持ち込んだから堪らない。タイのように鋭敏な魚は一本釣りには
かからぬと思い込んでいた地元漁師は、一日一人で百貫近いタイを釣るのを見て、「秘かに毒流しをやっているのでは
ないか」などと悪し様に云い、だれも捨松の紀州釣法を信じない。
そこで、捨松はそんな漁師を前に実演して見せるわけである。
一隻の船に四、五人秉りこみ、各々が約50メートル下をビシマ仕かけで脈釣り、そして一人が15メートル位の綱に
約2キロの石をつけて海中に投げ込む。その何回となく打ち込む音と水泡にタイが集まってくるのである。
これが、地元漁師を驚かせた紀州ドンブリ漁法なのだが、捨松のような名人芸がやってこそ、タイも飼いならされた
コイのように集まる。が、地元の漁師は何度やってもさっぱり魚が集まらない。
違反漁法だ、と地元では白眼視、そして捨松の毎度の豊漁に、白昼路上でもインネンをつけられる苦難の日々であった。
しかし、捨松は屈せず、相変ずの魚族調査、ついに四十一才の時、大原沖のタイ付場―大根を発見。今日の大原のタイ
釣りの礎をつくったのである。
大根の発見と同時に、紀州から家族を呼び寄せ、大原に永住を決意したのである。その間、地元の白眼視はつのるばかり
だが、捨松も素人相撲の横綱まで張った男、負けてはおらず、まさに修羅場の連続だったという。だが日が経つにつれ、
捨松の漁法も理解され出し、数年のうちにドンブリ漁法の最盛期を迎えるに至ったのである。
タイ釣りに打ち込む捨松の気概と執念に、みんなが敬服しだしたということもできよう。そして三十八年、捨松は船宿―
松栄丸をつくり、名人芸のタイ釣りを広く披露して、地元新聞に「観光地大原の生きた名物」と云わしめたが、惜しくも
この四月、六十五才で亡くなったのは前述のとおり。
「生きたタイ釣りの歴史」は今はないが、勝、光夫、弘の三兄弟が跡を継ぎ、いや栄えているのは、故人捨松の遺志とは
別に、彼ら三兄弟のこれまたタイ釣りに賭ける執念であろう。
松栄丸主人中井光夫(左勝さん(右)) |
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不屈の遠征スピリット
タイ釣りに賭ける執念―捨松の不屈の遠征スピリットといえると同じものが、三兄弟の血の中にも流れていたのである。
大原沖に居坐わる冷水塊―昨年から、そしてとくに今年は大原沖のタイは振わない。他の船頭なら釣りものをタイ以外に
探がすものだが、この三兄弟は違う。「近場で釣れなければ釣れるところまで行って釣ってくる」という、不撓不屈の精神
の持ち主である。
遠征釣りは主として犬原から九時間の航程の新島回り、昨年七月に初めて出かけた。
この新島へは、遊漁とは別に次男の勝が十七、八才の頃、捨松に連れられてタイ釣りの指導に行ったことがあるし、ぞの前後
四、五年は大原沖が釣れなかったこともあり、連続して通よったことがあるという旧知かつ熟知している漁場である。
昨年は七月から三回にわたって遠征したが、一キロから七キロの型で平均四斗ダル七本の釣果だったという。ときには10キロ
級のものまで釣れたが、今年は一キロ前後で型は小さいながら、数は相当出ているという。
仕かけは大原沖と同じく、シーロック(潮帆)を入れて釣る紀州仕かけ、おもに次男の勝が船長として出かけるが、地元島民
とは指導船以来の二十年の知己、和気あいあいと釣るその活気あふれる釣りは、遠征釣りならではの醍醐味だと、古い馴染みで
後見役のような石井善助氏はいう。
大原沖タイ紀州仕かけ |
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早朝六時半に大原を出漁、九時間後には、新島羽状浦沖につき、ハヤ島、ワカゴ回りを夕マズメに釣り、翌早朝の朝マズメを
また攻める、そして日中はアカハタ、メイチダイなどの根魚釣りに転じたり、午睡に過したり、あるいは新島の行楽に過したり
して、日の暮れるのを待って、またタイ釣りに転ずるという二泊三日の船釣りとしては大遠征釣行である。
水深は約30メートル、船長の勝は大原沖と同じくらい、新島の根に詳しい。それに加わえて最新式の魚探で魚群を追う。なお
かつコンパスを駆使しての釣りにあぶれがあり得ようはずがない。潮の動きの具合を見て、シーロックつまり落下傘を放り込むと、
さあ釣りは開始だ。
船長の勝以下、乗り子二人がテキパキとタナどりを手伝うが、だれが上げても最初の一尾にカン声が船いっばいにあがる。
不思議と新島のタイは受け口の、人問に讐えれば好色ぞうな美人タイだ。それでいて当りは激しく、上げるまでに十分はかか
るという手強い相手だ。
大漁に結びつく最大の要因は活きのよいエピであろう。「潮の条件さえよければ、型のよい大ダイが全くの入れ喰いとなる」
というのも、あながち誇張とは云えない。ともあれ、十二トンの船で時速10ノット、九時間かけての新島遠征は、まさに従来の
舶釣りの概念を破りえた快挙といえようか。
新島からさらに銭洲ヘ
それはさて、新島遠征は七月から九月にかけての秋ロがよい。今年は六回の遠征釣行であった。せいぜい一年のうち二ヵ月の遠征、
この限られた二カ月の間、如何に効率よく釣りを楽しんでもらうか、心をくだいた結果が、新島から更に南の神津島はるか沖合いの
銭洲への遠征であった。
この八月十一日から十二日にかけての銭洲遠征は、その試釣として大きな成果を納めたという。新島から7,8マイルの潮速を持つ黒
潮に逆って5時間銭洲は素晴しい漁場であった。
釣れるのはマダイを始めアカハタ、メイチダイ、メジナ、イシガキダイとまさに入れ喰いがつづいた。今回は、時間的に余裕がな
かったが、一日やれば相当面白い釣りができるともいう。
ともあれ、遠征釣りは故中井捨松を頂点とする中井一族(松栄丸、春日丸、長福九、久米丸、力漁丸)の血に脈々と流れている。
云うなれば、遠征釣りすなわち新しい漁場の開拓は、タイヘの執念を燃やしつづける紀州船頭の真骨頂でもある。古くからの漁場
―紀州を捨てて、あえて新漁場を求めた海のジプシーなればこそ出来得る冒険であろう。
海のジプシーといったが、この言葉の裡は決しで野放図なものではない。新しい進取の気に富んだ真の開拓者にも通ずるものとも
いえよう。この前向きの姿勢を崩さない中井一族は、その人柄も明るく蕊落そのものである。
かっての捨松の戦闘的でさえあった姿勢は、まるく角がとれ、今や上げ潮にのった感じでさえある。
ただ、捨松が大原に目をつけたのはタイが豊富だというばかりではなかったろう。エサのエビが豊富で、比較的たやすく獲れる
ところにも目をつけたに違いあるまい。今後、松栄丸を始め中井一族が益々伸びていくには、豊富なエビをもって遠征するのもよ
かろうが、それとともに新島等エビ獲れぬ地元でのエビに代わるエサを工夫、新しい釣法を発見・指導してやるのも、今後どこへ
行くにも地元と融和しつつ競合できるきる遠征釣りとなろう。これをして捨松の遺志といわんか。
なお、近場の大原沖のタイ釣りの盛期は九月から十二月。本誌が出る頃から、大ダイが釣れ始めよう。
料金 大原沖合い=午前三時出船→午後一時まで二千六百円。遠征釣り旦二泊三日食事付き一人二万円。
問い合わせ 松栄丸(電○四七〇六―二―〇五七一)
※ 注意 料金等は、その当時のまま原文記載してあります。